ゲヱム日々是徒然

No VideoGame. No Life.

あるバーチャルボーイ愛好者の懺悔

電ファミに出ていた以下の記事を読むなどした。とても面白かった。

news.denfaminicogamer.jp




著者が知る人ぞ知る「翌週」先生で、冒頭で著者名を見てびっくりしたのだけど(石元さんどうやって口説いたんだろう)、内容もきちんと面白くて流石だな~などと思いつつ、個人的に心をグサリとやられたのは結びのこの文だ。

しかしそもそも本質はいかなるものだろうか。1枚のサーキットボードとそれを保護するABS樹脂の成型された外装、貼り付けられた製品ラベルに注意書きのシール、厚紙やプラスチックでできたケース、印刷されたスリーブの用紙や綴じられたインストラクションマニュアルとアンケートはがき、そのいずれかに宿るものなのか。あるいは“同じ月を見ている”のだろうか。

ビデオゲームの本質、その価値の宿るところとは、プログラムコードとそれがプレイヤーにもたらす体験である――と私は考えている。だがそれなら、そのゲームを「包む」ものが何であれ構わないのではないか、ということになる。なにも純正のカートリッジでなくともいい、むき出しの手製基板であっても、フロッピーディスクが挿入できるあやしいツールであっても、何ならUSBメモリの形をしていたとしても、最終的にアウトプットされるプログラムの内容が同じであれば何でも良いのではないか、と。
少なくとも、それは真理の一つではあるだろう。本物のカートリッジ、非許諾のカートリッジ、カウンターフィットのカートリッジ。どれもガワこそ違えどおそらく中には同じプログラムが入っていて、同じゲームが遊べるのだ。これでイリーガルな存在であるという欠点さえ何とかなっていたなら、おそらく私も一つや二つは手元に持っていただろう。まして正規のゲーム機に挿して遊ぶものだ。そこから得られる体験は紛れも無く「同じ月」になるだろう。そこに上下や貴賤はない。


問題は、やはりどれだけ言葉を尽くそうとも、やはりそれらの大部分はイリーガルで非合法な代物だということだ。中古ゲームソフトでメーカー自体の懐が潤うことはなく、純正品にしがみつく行為はお金がかかるばかりで完全に自己満足だ。それでも、非許諾や海賊版の業者の懐に、それとしりつつお金を投じるのは、私にはまだためらわれるのである。
一方で、こうしたある種の潔癖さを、私はいつまで保っていることが出来るだろうか、という焦りはある。わざわざ「まだ」と付け加えた理由はこれだ。正直なところ「非許諾でもいいからMDの『ヴァンパイアキラー』が遊びたい」という思いが私の信念をへし折る日はそう遠くないのではないかと思っている。私がメガドライブ以上に愛しているのがバーチャルボーイだが、もし『WATER WORLD』のリプロ品がスイと私の目の前に現れたなら、財布から諭吉を取り出す心を抑えられる自信は私にはない。


ところで、この記事はこれまで語った悩みとは別にもう一つ、私の抱える醜さを突き刺した。せっかくなのでそちらも打ち明けてしまおうと思う。


私はバーチャルボーイをこよなく愛している。このゲーム機で発売されたゲームすべてを遊んでみたいと思い立ち、縁あって私は国内で発売されたすべてのバーチャルボーイソフトを入手し、遊ぶことが出来た。値段的な意味で一番苦労したのはこの『バーチャルボウリング』だった。事実、入手したのはこのソフトが最後だ。確か完品で8諭吉ほど投入したと思う。

f:id:UnFreeMan:20180130224353j:plain
最近とうとう裸ソフトで9諭吉の大台に突入してしまったそうな

さて無事にすべてのゲームをひと通り遊ぶことが出来、野望(これについてはいつか話せる時が来るだろう)にも近づいた、めでたしめでたし――とはならなかった。私はあることを非常に恐れるようになったのだ。
それはこのソフトの価格の下落だ。さっきビデオゲームの本質だ何だと偉そうに言ってみた人間が何をと思うだろう。それはそれで間違いなく私の考えであるのだが、それとは別に、残念だが、オリジナルカートリッジの持つ金銭的価格をありがたがる浅ましい私という人間も、どうやらいるようなのである。別に手放す予定があるでもなく、放っておけばよいのだが、何かの機会があると私はふと『バーチャルボウリング』や『SDガンダム ディメンションウォー』の価格を確認するようになった。なんとなく、買ったときより値段が下がっていると嫌だなあ――そんなことを考えるようになってしまった。そうした浅ましさを、記事中のリプロ業者たちはおもいきり突き刺してきたのだ。具体的に言うとこのくだりだ。

このリプロカートリッジについて、RetroUSBはユーザーがオリジナルと誤認しないようにという意図で、半透明な独自の外観を採用したレプリカを作成している

これらリプロがRom移植というスタイルにこだわること、基板が見えるクリアカートリッジにこだわること、そこにはなんらかの矜持がある

ここで触れられている「矜持」について、言葉は一言だがそこには様々な意思が織り込まれていると思う。自分たちがカウンターフィットと同じ道は行かないということ。その気になれば市場からもユーザーからも排除が容易である存在たらんとすること。実際の行動からはいろいろなものを読み取ることが出来ると思うが、私はそこに「オリジナルの価値を毀損しないこと」という意図を読み取った――俺達はこの面白いゲームを遊びたいゲーマーに、まあ多少の利益はいただくけど、再び手に入れて遊ぶ機会を与えられるようにするよ。ただ既にあんたらが抱えちまってるオリジナルの"値段"は下げないようにするから安心してよ。ゲームの内容とは関係ないしね――と、こういうわけだ。これが考えすぎだとは思わないし、もし仮に私がリプロ業者と同じ立場であるなら、オリジナルカートリッジの使用可否にかかわらず、外見はおそらく変えるだろう。それが何らかの火種になり得ることは明らかだからだ。そうしたリプロ業者の姿勢に私は安堵を覚えるとともに、見透かされたような気持ちや、後ろめたさを覚えるのである。


カウンターフィットの横行がリプロ業者に商機を知らせ、巡り巡って善良なゲーマーの入手や体験の機会という形で還元される。複雑な気分だが、おそらくこの構図は存在するのだろうと思う。後に移植やバーチャルなんとかといった、ある種のアーカイブ化がなされるのならまだ良い。しかしそこからこぼれたゲームはどうすればよいのだろう。それを遊びたい、遊んでほしいという欲求をどうすればよいのか。今からでも抑えて本棚に大切にしまっておくのが正しいのだろうか。それともそのときこそリプロが福音になるのだろうか? 本体に挿せば結果は同じだ。法律? それがゲームを守ってくれるのか? ゲームを遊ばせてくれるのか?
答えは出ない。今言えることがあるとすれば、せめてこうしたことで私腹を肥やすのは、権利者か、許諾に骨を折ったであろうある種真っ当なリプロ業者であって欲しいということだけだ。私は今日もeBayで、1000ドルを超える価格の『WATER WORLD』が、ウソのような値付けがされたHomebrewカートリッジとともに出品されているのを、ただ虚ろな目で眺めていることしか出来ない。